兵庫県の漁業調査船、太平洋で撃沈される
今回は、戦時中の報道管制が厳しい中であまり知られることのなかった、初代漁業調査船「但馬丸」を襲った悲劇をご紹介します。
昭和4年(1929)に建造された「但馬丸」(89トン)が海軍に徴用され、津居山港を出航したのは、昭和19年(1944)3月2日のことでした。大鳥島(ウェーキ島)への物資等運搬の任務を負い、乗員25名を載せて、横須賀港を4月22日に出航しています。
小笠原諸島の父島を経て、大鳥島(ウェーキ島)へ向かう途中の5月5日午前7時過ぎ、「運命のその時」がやってきました。当時の船長が残した生々しい手記を読んでみましょう。
士官室に入って数分後、「潜水艦が見えます」と、大声が聞こえた。「どちらか」「船尾の方です」直ちに飛び出して見れば、左舷後方1,500メートル位に、敵大型潜水艦が浮上しつつある。「戦闘配置につけ」指揮官の声が聞こえる。直ちに戦闘開始、たちまち3門の機銃は敵艦めがけて火を吹いた。私は早速操舵に就き、全速力にした。ふと後方を見ると、白線一筋船尾に迫る。魚雷だ。直感して取舵一杯、運よく船すれすれにかわし、針路を元にもどした瞬間、前方に更に別の潜水艦が1隻浮上して来た。
私は最早最後と、かねて指令を受けていた暗号用文により、船位と、「敵潜2隻と交戦中」の電文を打たせた。船側には敵砲弾の水柱があがり曳光弾の弾着と、本船の機銃音がガンガン鳴り響く。ふと船側を見ると、泡のかわりが遅い。おかしいと思い、伝声管で「全速だがどうしたか」と、大声で言うと、「もういけません」と言っている。私は直ぐ船橋を飛び降りて機関室をのぞいたが、船室下より海水が渦を巻いて侵入しており、空気バルブから入る水で、エンジンの回転は次第に落ちてゆく。所謂すべ無し、全員上れを命じ、船橋に戻った。
いよいよ最後の処置をと、手持ちの暗号書、機密書類、海図等をかねて備えつけていた鉄筒に入れ、海中に投げ入れたその瞬間、船橋の後方に砲弾が命中、私は前に叩きつけられ、内張板の破片に包まれた。その直後、機関部員3名が上って来て、引きずり出してくれた。
甲板には司令部宛の暗号書、重要書類等を入れた箱が4箱あり、この箱は、事情の如何を問わず、絶対敵に渡すような事があってはならぬと命令を受けていたので、それを一門の山砲にくくりつけ、万一の場合は海中に投下するよう係員も定めていたが、誰も居なかった。私はそれを早く投げ込もうとしたが、山砲が重くてなかなか動かない、そのうち船尾から急速に沈没し始めた。・・・・
その後、海に投げ出された船長は潜水艦に救助され、昭和21年に無事日本へ帰ってきました。船員11名、兵員14人のうち、救助されたのは船員3名、兵員1名だけだったということです。
現在運航中の漁業調査船「たじま」(140トン)は、平成21年に完成する、最新鋭の新造船(190トン)にバトンタッチすることになっています。太平洋に消えた初代調査船から数えて、5代目ということになります。
私たちはこの歴史的事実をかみしめ、諸先輩のご冥福を祈りながら、新たな思いで但馬漁業の発展に尽くしていかなければなりません。

