センターからひとこと

(当センターの所長、次長、各技術センター所長等が順に執筆します。)
今月は 水産技術センター所長 近藤 敬三 が執筆しました。

瀬戸内海の貧栄養化について

瀬戸内海は全国有数のノリ養殖海域ですが、東部海域では1990年代後半から生産量が減少しており、その最も大きな原因は溶存無機態窒素(DIN)の不足によって生じる「ノリの色落ち」です。さらに、漁船漁業における「漁獲量の減少」が漁業経営に大きな打撃を与えており、栄養塩不足が基礎生産力の低下につながっているのではないかと心配されています。

私は、1980年4月から兵庫県の水産職として勤めており、漁場環境を担当していた時期には、夏の有害赤潮が魚類養殖業に被害を与えていました。私は、播磨灘の海水を採水して顕微鏡でプランクトンを計数したり、栄養塩濃度を測定しており、今でも夏になるとこの赤潮パトロールのことを思い出します。

それから35年が経過しましたが、今では大規模な有害赤潮は殆ど発生しなくなり、さらに進んで、海藻やアサリが減少した海になってしまいました。漁業者は勿論ですが、私たちのような水産関係者は毎日のように海に接しており、『水質が清くなったが、「豊かな海」ではなくなった海』を実感しています。

水産技術センターでは、1973年度から播磨灘(図1)や大阪湾・紀伊水道において、調査船(図2)による海洋観測や、栄養塩濃度を測定しており、漁業者に情報提供しています。この間、約40年間のデータが蓄積されており、この貴重なデータは様々な研究に活用されています。

今月は、海域の貧栄養化と漁業の現状、さらに、今後の方向性について紹介します。

左:図1 海洋観測点、右:図2 調査船「新ひょうご」

1 瀬戸内海の貧栄養化

かつて「瀕死の海」と言われた瀬戸内海の環境は環境保全施策の効果によって、水質は改善されています。図3に示しますように、沿岸の影響を受けない沖合(H18)の透明度は高い値を示しており、最近は20m近い値も記録されています。

一般に、植物プランクトン量が減少すると透明度が高くなりますが、一方で、植物プランクトンは海洋生物の餌となる重要な生物であるため、透明度が高い海であれば良いということにはなりません。このような海は「貧弱な海」であり、私たちは生物生産の視点から瀬戸内海の環境を評価することによって、「豊かな海」を目指す必要があるのです。

植物プランクトンが育つためには、陸上の植物と同様に栄養塩が必要であり、海の3大栄養素として無機溶存態の窒素(DIN)とリン(DIP)とケイ素(DSi)があります。これらの栄養塩のうち、瀬戸内海では特に窒素(DIN)の減少が著しく、図4に示しますように、播磨灘における濃度は1980年代の4割程度にまで減少しています。

左:図3 播磨灘における透明度の推移、右:図4 播磨灘表層の窒素(DIN)濃度の推移

2 ノリ養殖と栄養塩

図5に示しますように、兵庫県のノリ養殖業は1970年代に急速に発展し、その生産量は1990年代中頃までは17~18億枚、170億円前後で推移していました。しかし、1990年代後半から生産枚数、生産金額ともに減少しており、現在は11~15億枚、90~120億円となっています。この減少の最大の原因は、ノリの色落ちによる品質の低下であり、水産技術センターでは、ノリ養殖時期である冬の環境調査の回数を増やしたり、ノリの品種改良に取り組んでいます。

「ノリの色落ち」とは、栄養塩不足(特に窒素)によってノリの色素含有量が低下して色調が褐色(図6)になることであり、味も悪いため商品価値が低下します。この現象は1980年代から見られていましたが、1990年代後半から頻発するようになり、生産量が著しく減少しています。ノリの色落ちの原因は窒素(DIN)不足にあることは明らかであり、兵庫県の海では概ね3μMを下回ると発生します。

左:図5 兵庫県の養殖ノリの生産動向(兵庫県漁業協同組合連合会資料)、右:図6 色落ちしたノリ

3 漁獲量と栄養塩

図7に示しますように、漁船漁業による漁獲量は1990年代前半までは6万トンを超えていましたが、1995年頃を境に急減しており、近年は3万トン台にまで落ち込んでいます。漁獲量が減少し始めたのは、ノリの色落ちの発生と同時期ですが、この要因は現時点では明確ではありません。

しかし、漁業実態等に急激な変化は見られないので、漁獲量の減少要因として環境の変化が関わっていると考えています。この環境要因として、沿岸域の埋め立て、貧酸素、水温上昇などの様々な意見がありますが、海域の栄養度の低下が漁獲量減少の大きな要因であると推測しています。

「イカナゴのくぎ煮」(図8)として皆様に親しまれているイカナゴの漁獲量と窒素(DIN)濃度の関係を図9に示します。イカナゴの漁獲量も近年は減少が続いており、漁獲量と窒素(DIN)濃度との変動の間には類似性がありますが、科学的な確証は得られていないため、さらに分析を進める必要があり、水産技術センターの重要な研究課題となっています。

なお、漁業者はイカナゴ資源を維持するために、解禁日の設定や操業時間の制限等の資源管理に積極的に取り組んでいますので、毎年、皆様にイカナゴを届けることが出来ます。

左:図7 兵庫県瀬戸内海の漁獲量の推移(養殖業は含まない)、右:図8 イカナゴのくぎ煮
図9 イカナゴ0歳魚の漁獲量とDIN濃度

4 瀬戸内海における環境保全施策の転換

「ノリの色落ち」と「漁獲量の減少」は、兵庫県の漁業が抱えている最も重要で深刻な問題であり、漁業者は、水産資源を維持するために資源管理に取り組むだけでなく、「海の貧栄養化」について学習するとともに、粘り強く「豊かな海の再生」を求めています。

最近、瀬戸内海における養殖ノリの色落ちや貧栄養化の問題が新聞に報道されるようになり、広く知られるようになってきました。国も瀬戸内海の豊かさが失われつつある状況を危惧しており、これまでの汚濁負荷量削減や富栄養化対策から、豊かな海を目指した環境管理へと方針転換を図ろうとしています。

今年2月には新たな「瀬戸内海環境保全基本計画」が閣議決定されるとともに、国会では「瀬戸内海環境保全特別措置法」の改正案の検討が行われています。このように環境保全施策は大きな転換点にさしかかっていますが、これからは栄養塩管理が大きなテーマとなります。

海の生態系は複雑であるため、栄養塩レベルを変化させた場合の漁業生産の予測は簡単ではないので、今のところ、海の貧栄養化と漁獲量の減少との関係を断定することは困難です。しかし、水産業の立場からは、栄養塩と漁業生産の関係を示す多くの事例を重ねることによって、この関係にある程度の蓋然性が見えた段階では、柔軟に対応できる順応的管理に基づく栄養塩対策の実施が望まれます。