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「ブドウの木の下で死ねたら、本望や!」

 現場に行くと、毎日がドラマのようでありおもしろい。
 とくに、愛情をいっぱい受けた農園、果樹園を見たときは、うれしい気持ちで帰途に着くことも多い。
 そして、愛情の深さが一番よくわかるのは、果樹園ではないかと思う。
 毎日の愛情の積み重ねが、長い年月を経なければ、美しい果樹園は出来ない。
 果樹園に愛情が注がれているかいないかは、その果樹園に入ると一目瞭然である。
 その果樹園に入ると、愛情のお裾分けをしてくれるので、元気が出てくる。
 悲しいのは、果樹園を儲けの対象とだけ見て、愛情の対象として見ていない場合である。
 こういった果樹園にはいると、何ともいえない無力感におそわれる。
 愛情に飢えた果樹園が、普及員から愛情を吸い取るんでしょう。
 以前に、ある果樹農家を訪れる機会をもった。
 その農家は、ブドウを作り始めて40年以上、本人は70歳を越え、リタイア年齢をとっくに過ぎており、後継者もいない中でよく頑張っている。
 ところが、何よりも驚いたのは、いまだに新品種導入に意欲的であり、次期有望品目として数品種試験栽培をしているのである。
 話を聞くと、「妻と2人で育てたブドウ畑や。この下で死ねたら本望や。」と言うのである。
 この言葉には、さすがに感動をおぼえて胸を衝くものがあった。
 70歳を過ぎて、人様に迷惑をかけない経営の終わりかたもすばらしいが、人様に迷惑をかけないならば、200歳まで生きることを前提に経営の旅を続けていくのも、これまたすばらしいことのように思えてくる。
 旅の途中でこときれるのも、ひとつの美学である。
 あーっ、この人なら明日死ぬことがわかっていても、そのとき元気なら、肥料(愛情)をやりに行くんだろうな・・・と思わされるものがあった。
 豊かな農業人生である。


 この項は、ちょっときれいにまとめすぎたので修正する。
 このブドウ畑も、それなりに儲かっているから続けられるのであって、いくら金の要らない年齢になったとはいえ、全くブドウが売れなかったらやめてしまわざるを得ないであろう。
 全国には、愛情はあるが、どうしても管理することが出来なくなった果樹園がいっぱいである。
 とくに、元大産地には、こんな果樹園だらけで、そんな園を訪れなければならない普及員の苦労がしのばれる。
 そういった産地では、再活性化と称して、官民あげてきめ細かい施策を導入するわけではあるが、金よりも愛情に飢えた果樹園ばかりでは、如何ともし難い。
 この果樹園だけは「あるじなしとて・・・」とはいかないようである。愛情の受けられない果樹園は、朽ち果てるのみである。
 ところが、「身体は爺さん、心は少年」のこの経営主にとって、常に消費者を前提として、新品種新技術を追い求めているため、収穫したブドウに消費者の心をとらえるものがあり、「収穫=現金収入」の状態を維持しており、何とか儲けを確保しているようである。
 「金=愛情」ともいえるが、本当は愛情が回り回って金を生むと信じたい。
 愛情がなければ銭を生まないし、銭を生まなければ、経営の旅は続けることが出来ない。
 「ブドウの木の下で死ねたら、本望や!」と言いながら、経営の旅を続ける人の人生は、豊かである。