1967年(昭和42年)7月17日夜から18日の未明にかけてのこと。潮岬の南方約500kmにあった気象庁の定点観測船「おじか」に乗船していた鶴岡保明氏は、船の灯に群がる無数のウンカ(トビイロウンカとセジロウンカ)を目撃しました。
 実は当時はまだトビイロウンカとセジロウンカが「国内定住」しているのか「海外飛来」しているのかはっきりしていませんでした。「日本のどこかで冬を過ごしているはずだ」、「いや、日本では越冬できない。海外から飛んでくるのだ」。
 この事件をきっかけに「海外飛来」していることが有力になり、岸本良一氏(当時農林水産省農事試験場)らによって、これらのウンカは梅雨時期に中国大陸南部からの気流に乗り、東シナ海を越えて日本に飛んで来ることが明らかにされました。(ちなみに、ヒメトビウンカは国内(畦草)で越冬します。)
 農林水産省は毎年梅雨時期に、東シナ海に向かう気象庁の観測船に昆虫の専門家を便乗させて大陸から飛来するウンカの捕獲調査を実施しています。日本本土への飛来状況を把握するためです。筆者の一人(八瀬)も乗船したことがありますが、調査は船酔いとの闘いでした(苦笑)。
 船上でのウンカの捕獲には直径1mの特製捕虫網を用います。これを船首部と上甲板部のマスト部2箇所に揚げ、ウンカが入るのを待つのですが、周囲は360度見渡す限り一片の陸地も見えない大海原です。こんな所で虫が捕れるなんて信じられませんが、実際に網の中にウンカの姿を見たときは事実を認めざるを得ず、小さな虫が持つスケールの大きさに感動したのでした。
 さて、日本に舞い降りたウンカはやがて卵を産みます。生まれてくる世代は、新鮮な稲の汁を吸ってすくすくと育ちますが、翅(昆虫の「はね」はこの漢字です)が短くて飛べないウンカに成長します。食料が潤沢にあるので遠くに行く必要がないからです。そして、翅を節約した分、卵がたくさん産めるようなります。すごいしくみだと思いませんか?
   やがてウンカたちは稲を枯らすまでに増えますが、新たな稲を求めて移動するにもいかんせん翅が短くて飛べず、もとより幼虫は翅がない、というわけで隣の株に移ります。そこが枯れたらまた……というふうにどんどん隣に移って行くので、枯れた場所は同心円状に広がっていきます。この被害を「坪枯れ」と呼んでいますが、ひどい場合には田んぼ全面が枯れて収穫がほとんど無い、という事態も起こります。なかでもトビイロウンカの繁殖力はきわめて旺盛で、昔からたびたび大発生し、大きな被害を出しています。歴史に残る飢饉のいくつか、たとえば1万人以上の餓死者を出した享保の大飢饉(1732年)はこのトビイロウンカが原因とされています。
 どんなに増えても、日本で冬が越せないトビイロウンカとセジロウンカはすべて死に絶えます。私たちの目からみれば、毎年、壮大なムダをしているわけですが、そんなことお構いなしに絶えず生息場所を広げようとする行為が、気候等の環境変化への素早い対応となって今日の虫たちの繁栄を支えているのです。

 

東シナ海にてウンカ捕獲中!(長崎海洋気象台の長風丸にて。中央の横向きの三角形のものが特製捕虫網)

坪枯れ

 

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